SR55話B面『とある思い出ばなし』

本日のざれごと

さてと、あとひと月半とせまってまいりました『西武園オールスター』!
先日、どっかの場で なんかやってたみたいですけど さっさと終わっちゃったし、ど~か みなさま、西武園のほ~「チョ~ご期待」くださいましね。
とゆ〜わけで、タナカセンセェ作の応援イラスト!!!

あら、今回は またちょっと違ったタイプのデザインね

これも昔作ったものの使いまわし(笑)
中の文字だとか何箇所か入れ直したの

当時、ラベルとして作って、日本酒や飲み物のビンに貼ってたんだよね
雑誌で読者プレゼントに使ってみたりとかさ

なるほど
お~むかし感 まるだしなのは、そ~ゆ~わけか(笑)

今のご時世にぴったりでしょ
戦時中のスローガンにいっぱい出てくるフレーズ
「今は非常時」
ってのが、すごく実感できる昨今だし…

たしかにけ~りんじょ~の少子高齢化問題や、ポイントで釣り あの手この手で取得者をふやそうとヤッキになってる『Saica』っていうカードのこととかね

取得は任意でも強制的に申し込みせざるをえないような手ぐちも考えなきゃだしさ…
問題がおきても いっさい責任はとらないって形にもしなきゃだし…

とにかく世界平和主義で家庭的な競輪信者をもっともっと増やしてオールスターじゃ1人でも多くの人たちに投票に来てもらわないと(笑)
というわけで、もう一枚!

う〜ん…
それにしてもさあ
もうちょっとオシャレなの つくれないもんかねえ…

だって「非常時」だもん…(笑)

大前選手の引退

はい!
というわけで、それでは今回の「ざれごと」(笑)

A面じゃ地元新人選手たちのことをなぐさめ程度に取り上げたけど、今度は去る人に関してのお話ね。

先月、37年間の現役生活にピリオドを打たれた岡山の大前寛則選手(57期)について ちょいと語ってみたいと思うんだ。

実は、大前さんとは もう35年くらい前になるのかな…
オレがデビューして1~2年目くらいの頃、他の選手の紹介で知り合って結構な期間交流があったのよ。

自宅(独身時代のアパート)にお邪魔してお泊まりさせてもらったこともあったし、オレん家にもね。

歳は、オレより6歳ほど下なんだけど、プロデビューはオレより先だし学ぶところは多々あったんだ。
彼の選手としての姿勢にも尊敬できるものがあったし…

というわけで、思い出話を少々したいんだけど、その前に当時の客側(オレ)にとっての競輪事情を伝えておくね。

彼のことで一番記憶に残っているのは「競走得点」にまつわるエピソードなんだけど、今とは全然違うシステムだったし、そもそも知り合いになったとはいえ東京のオレに岡山の彼の競走を観ることはほとんどできなかったっていう当時の事情を説明しておきたいんでさ。

記念競輪すらほぼ観ること不可能だった時代

え~っと、オレがマンガを描き始めた頃って当然ネットは無く、競輪に関する情報といったらテレビ、スポーツ紙、予想紙、業界紙誌、そして現場、これがすべてだったの。

いっぱいあるように感じるかもしれないけど、いや も~ 今に比べたら無いに等しいってレベル。
そもそも競走自体、本場で観るか、UHF局でやってる近隣地区のレース中継をかろうじて観られるかってだけなんだから。

各地の記念競輪だって、そう。
スポーツ紙か、1~2ヶ月後の競輪雑誌で結果を知るか、当時 週1回あったテレビの競輪番組でダイジェストを拝めるくらい。

他地区の開催を観られるのって、ホント特別競輪の決勝中継くらいのもんだったのよ。

さらに言うと、当時は選手の斡旋も、S級以外は東西にほぼ分かれていたのね。
ゆえに東京に住んでいるオレが姿をを見ることができる選手は北日本、関東、南関東がほとんど、たまに中部近畿ってくらい。

つまり西の選手を見られるのは、関東でのS級シリーズに斡旋されたときにのみ。
(A級選手も同地区のS級選手の遠征時に一緒に斡旋されることがあり)

それ以外だと、今は無き「ダービートライアル」ってのがS•A•Bの揃い踏み開催だから、それくらいかな…

後で詳しく話すけど、大前選手は30代半ばあたりまでA級を走ってたので、だから競走を観られる機会ってのはほとんどなかったってわけ。

当時はそれくらい全国レベルで競輪を観ることは大変だったのよね。

話はちょっとずれるけど、ゆえにマンガを描くことも苦労は多かったの。
一応全国区って形で描かなきゃなんないでしょ…
(全国で雑誌発売してるから)

「さあ選手、競走を描きましょう」

ったって特に西の選手は、顔…
姿形どころか戦法すらわからないんだからね。
そもそも競走自体観たこと無いんだし…

にも関わらず、そういった選手を実際の斡旋に基づいて登場させて番組作って、並び作って、展開作って、麻雀までさせて…(笑)

これのおかげで描けました

というわけで、それでもなんとかそれっぽい競走作るためには新聞雑誌を中心に勉強と研究続けるしかなかったわけ。
で、オレがほぼ日課としてやってたのが当時の『月刊競輪』の「コンピュータ•ルーム」ってページを眺めること。

選手たちの競走得点、競走成績の推移をとにかく眺めまくったんだ。
最盛期は4000名くらいいたわけだから、毎日のように眺めてないと とてもでしょ(笑)

見たことのない選手たちの戦法も、これ見て「逃げ屋」だの「マーク屋」だのって判断してたんだから(笑)

ちなみに、当時の競走得点システムは現在のものと違って

『固有点持込み制』

長くなるから これの説明は省略するけど、個人的には現在のものより優れていたシステムだと思っていて、これのおかげで本当に様々なことを学べたんだ。

日々眺めてると気づく部分もいっぱい出てくんのよ。
例えば、選手の人柄とか性格、日常みたいなものまで推測できたりとかさ…

以前、このブログで話したことがあったかもしれないけど、『ギャンブルレーサー 』は 本当にこれで作れていたようなもんだからね。
(※ただし、ワールドジャパン社制作による『月刊競輪』のこと。制作が他社に移ったら、誌面から「コンピュータ•ルーム」無くされちゃったので)

あと蛇足だけど、得点システムが現システムに変更された時は愕然としたし、競輪に対する気持ちが一気に冷めてったような感じだったかな…
オレにとっては、それくらい重要かつ特別なものだったんだ。
「コンピュータ•ルーム」と「旧得点システム」って。

数値はいろいろ語りかけてくれる

さあ、ここからやっと大前さんの話ね。

やっぱりさ、知り合いになった選手のことって他の選手以上に こういうの読み込んじゃうじゃん。
で、即気づいたんだ

(大前さんも、平均競走得点値を大きく上下させない選手だな…)

要は競走成績のバラツキが少ないってこと。
(ここでの話は、もちろん旧得点システム時代ね)

オレは、こういう風に解釈したの。

(平均点数の上昇があまりないということは、つまりその辺りが現時点での個人の能力値[生まれながらの能力]としては最大レベルなのかも…)
(平均点数をあまり下げることなく維持し続けているということは、日々休まずに鍛錬を続けているってことだな…)
(何年間も これを続けているってことは、イコール真面目さ、真剣さ、忍耐力、精神力に長けているということ…)

古い話だからオレの記憶違いも多少あるかもしれないけど、最初にもちょっと話したように大前さんって知り合った頃からその後も、かなりの年月A級でS級にはなかなか手が届かなかったのね。
1点2点、時にはコンマ何点ってレベルで届かなかったりとかさ。
当時、選手の力のピークは27歳くらいなんて言われてた中、「次こそ次こそ…」を繰り返しながら いつしか30歳を超え、31、32…
って具合でさ…

今、古い『月刊競輪』を引っ張り出して確認したんだけど、これ2001年9月号で、大前さんが初のS級3班の点数獲得した時の期間成績。

なんと、34歳よ!
知り合ったのが1989~1990年あたりとして、それから約11年…

オレ、その間 彼がS級になれるよう祈り続けてはいたけど、やっぱり流れた月日が月日だけに難しいのかなって思ったりすることはあったのよ。
先に触れたように、点数を一時的であれ大きく上げられないってことは、もう個人能力最大級レベルでがんばり続けてきたってことでしょ。

でもさ、めげずに日々の努力をやり続けていたんだね。
点数上下させてなかったんだから…
失礼な言い方をすれば、高い才能はなかったけど努力を延々続けたってこと。

だから、初のS級決めた時は、心の底からなんてすごい男なんだって本当に感動させられちゃった。

(何度も何度も、10数年以上も跳ね返され続けながら、とうとう生まれながらの才能以上にまで自身の能力を上げちゃった…!)

って。

人柄も数値に表れる

ちなみに、この時って旧制度(旧競走得点システム)で級班格付けする最後の期でもあったのね。
一応旧システムの格付けの方が人数その他含めて厳しかったから、その点でもすごいことだったし、本人も旧制度でS級獲得したってことを誇りに感じていたように記憶してるかな。

で、その後の話だけど、遅咲きとはいえS級選手のポジション獲得してからは、今度はその位置を安定して守り続けたでしょ。
新制度になったとはいえ。

長年コツコツやり続けた努力、押し上げた能力は伊達じゃない、嘘はつかなかったってことだよね。

大前さんに出会った頃の印象と数字の推移で受けた印象が見事に一致して、結局その後の彼の競輪人生もその通りだったってことなのかな。

ついでだから話すけど、「コンピュータールーム」の競走得点一覧眺めていると実にいろんなパターンがあんのよ。

一人一人の選手の競輪人生を表している数値なんだから当たり前なんだけど、多数はやっぱりそれなりに点数上下させてる形ね。
あとは、乱高下させているタイプと、大前さんのようにあまり変化させないタイプ。

例えばさ、こんなタイプの選手もいたよ。
ある時バーンと115点、S級1班特選クラスの点数あげてたと思うと、ある日あっさり107点選抜クラスになってたりとか…

こういうパターンの場合は、つい意地悪な解釈しちゃうよね

(特別競輪でも特選レベルの点数あげられるってことはそもそもの才能、能力はそのレベルのものを持っているはず…)
(ケガ、その他のアクシデントでなく得点が急降下ってことは日常の鍛錬を怠っていたということか…)
(才能はあるけど、この仕事に対する思いや本人の性格はそういう感じなんだな…)

素晴らしい競輪人生

ど素人のくせに偉そうなこと言っちゃって申し訳ないんだけど、どんな世界でも己の能力の最大級の発揮と その継続、維持ってものすごく大変だと思うんだよね。

強い信念を持ち、何があってもやりぬく、耐え抜くってのを5年~10年…
どころか下手すりゃ引退するその日まで何十年もなんてさ…

なかなか、できることじゃないかも…

繰り返すけど、大前さんって確かに真面目でストイックなタイプに見えたんだよね。
競走眺めてても、そういう性格がすごく感じられたし。

ゆえに同じくプロの仲間入りができたオレにとって色んな影響を与えてくれる存在だったってわけ。

ちなみにね、マンガを描いていた時って今まで話したように、知りもしない選手のことは数値の推移だけを参考に性格とか競走姿勢を作ってたでしょ。
でさ、面白いんだけど、当時こういう事を関係者や選手たちから聞かれる事があったの。

「タナカさん、あいつ(選手)と知り合いなの?」
「性格よく知ってるね」

大ハズレもあったろうけど、数値から想像しただけの選手像なのに当たってるって言われることが結構多かったのよ。

なもんだから、数字ってのは本当にウソつかないんだなあと改めて思ったりもしちゃうわけ。

というわけで恩人の1人でもある大前さん、

「お疲れ様でした」
「どうも、ありがとう!」

なるほど…
センセェもいろんな人から学んだり教えられたりしてきたんだね

ま~ね!
でもさ、これまた面白いことに歳をとると勉強したり色々覚えたりしたこともどんどん頭の中から消えていくのよ

競輪のことはもちろんだけど、去年だったかな
九九が出て来なかったことがあったし、漢字どころかカタカナやひらがなまでど忘れしたこともあったよ(笑)
選手や親族の名前ですら、もうあったりまえのように…(笑)

センセェ、これからの日本で生きていくの大変そうだね…
暗証番号だの いろいろおぼえることいっぱいだよ

そうねえ…
まさか健康保険証廃止することができるようになるほど進んだ世の中になるとは思ってなかったもんなあ…
オールスターは、ぜひ投票しに行って頭に刺激与えなきゃ(笑)

とゆ~わけで、8月は投票所で、みなさま たくさんのおこしをお待ちしております!
でわ!

あっ、そうそう!
やっぱ、ひとことだけでも最後に言っとこ…

古性優作選手(100期•大阪)、どっかでの優勝~ オメデト~ございました!

SR54話B面『きっかけは食い物だった⁉︎』

本日のざれごと

さて、A面冒〜頭でもお話ししたように、あたしたちは今 観客増加にむけ気が気でない毎日です。
ところでタナカセンセェ、競輪場ちゃんと来てる?
すぐ近所に住んでんでしょ~…

ハッハッハッ
カケラも行ってない(笑)

やっぱマンガとかイラストとか作るのって それなりに時間がかかっちゃうんでさ…
あと歳のせいか、作業の後はいつもヘロヘロなのよ
家事だってあるしね(笑)

今はとにかく一生懸命イラスト作って地元オールスターを精一杯応援しようってとこかな(笑)

う~ん…
応援したいって気持ちはうれしいんだけど、もうちっとマシなもん作れないの?(涙)

使い回し、手抜きしまくりで作ったのってバレた?
ハッハッハッ

これからオールスターまでの期間、毎回このブログに応援カット披露していく予定なんでお楽しみにね
今回同様 使い回し、手抜きしまくりではいくけどさ(笑)

あの~
おねがいだからマトモなの作ってね
あたしだってカウントダウン画像で毎回がんばっていくんだから…

そうそう、あたしの その画像のほうは更新毎に入れかえて、その後は見れなくなっちゃいますから みなさまお見のがしなくですよ~(笑)

ってことは、やっぱ脱ぎか?
日々、暑くなっていくもんな~
グヒヒ

まだ言うの…

今度も「R-15」表記?
それとも違法レベルかな?
アッハッハッ

他場のサイトじゃ絶対やれねえもんな
ハッハッハッ

ハッハッハッ(汗)

初めて競輪場に行った日

はい、それじゃ改めまして今回の「ざれごと」ね!

今回は、A面のマンガでネタにした値引き売りにまつわるエピソードでも話してみようかな。

まずは最初に断っておくけど、売店での値引き販売とかの 今の実情ってオレはぜんぜん知らねえの。
さっきも言ったように今は競輪場自体にほとんど行ってないし、仮に行ったとしても最終レースあたりやその終了後に売店あたりをうろつくって習慣もないんでさ。

でもね、オレが人生で初めて競輪場に足を踏み入れたきっかけってのは何を隠そうこの値引き販売ってのに惹かれてだったの。

あれはたしか20歳くらいで学生だった頃かな…
(ってことはもう40年以上前…ショック!)

知人がさ、

「競輪場はいいぞ~、100円で食い物たらふく食えるんだから!」

オレからすっと、もちろん

「?」

聞くところによると、最終レースが近づいたあたりから どの売店でも投げ売り合戦を開始するとのこと。

当時のオレは競輪なんてカケラも興味がなかったし、そもそも893(笑)がやってるものっていう世間の無責任かつ差別的な人々同様 とんでもなく間違った認識しか持ってなかったんで、それまで競輪に行くのを誘われてもあまり気乗りはしなかったのね。

でも、それ聞いてちょっと興味がわいて半信半疑でついていったの。

塀の中に こんな場所があったとは!

場所は地元の立川競輪場。

その日の目的は食い物ってことで、たぶん最終レースあたりに合わせて現地に着いたと思うんだけど、それでも知人は早速車券を買いに窓口に突撃。
オレはもちろん興味ないんで無視。
レースもやってたけど、その時は特に心動かされることもなかったな。

ただ、あの時代だからね、人の多さにビックリしたってのはあったよ。
立川競輪場って周辺は普通の住宅地でしょ、その中にいきなり塀で囲まれ、中の様子がわからない施設が出現して、しかもその中には後年オレがマンガに描いたような人たちがギッシリ…

塀の外と内のあまりの違いに愕然としたってのはあったかな。
(あのマンガはもちろんフィクションなんだけど、客の生態についてはノンフィクションだからね。本当にああだったもん。念の為)

で、そもそもの目的である投げ売りの話なんだけど、本当に言われた通りというか実際はそれ以上、想像以上でこっちもさらにビックリ!

カツだの焼きそばだの翌日に残せない様々な食べ物を量や金額は交渉次第でどんどん放出してんの。
近所の住人たちも知ってるらしく容器やビニール袋持参でそれ目当てに集まって来てんだからさ。
数百円でテンコ盛りにして持ち帰ってたみたい。

オレも学生で金のない身でしょ。
ありえない金額で大量の食べ物にありつけることに大感激、夢の世界じゃないかって本気で思ったよ。

だから当然、ぜひまたこの夢の世界に来たいとも強く思ったね。

気づけば仕事にまでありつけた

でもさ、結局その後4年間くらい訪れることはなかったんだ。
その時って肝心の競輪自体には興味も何にも湧かなかったから。

当時はネットがあるわけじゃないし開催情報なんてわからないでしょ。
食べ物のためだけにスポーツ新聞買って調べてまで競輪場に行きたいとは思わないからさ。

話は省略するけど、再び訪れた24歳の時は競輪自体にちょっと興味が湧いたからだったの。
競輪好きの知人に競走のビデオだとか見せられているうちにだんだん面白そうに思えてきてね。
楽して金が儲かるというウソもかなり吹き込まれたし…

で、やっぱり連れてってもらって、その時は西武園。

ビギナーズラックってのもあったんだけど、車券を買う面白さに一発でハマってその後の人生まで変わっちゃうんだから人生ってのは本当に不思議(笑)
それからはもう行きまくったもんな〜…

ちなみにこれ第1回GPが行われた1985年の話ね。

さて、車券買うのが面白くて面白くてってことになると、今度は食堂や売店への関心はそれほどでもなくなるんだよね。
金のない身ってことには変わりなかったから、たとえ100円であろうとも無駄にできないのよ。

腹減ってようがなんだろうが金があったら、まずは車券って感じにすぐなっちゃったから(笑)
たとえ浮いたとしても、翌日の資金のこともあるじゃん。
毎日通う身としちゃさ…(笑)

で、それからしばらくして職(笑)を得て現在に至るって形だから、ゆえに それ以降 現在までの売店事情ってオレにはほとんどわからないわけ。

考えてみればその間、お客さんの数が立錐の余地がないってくらいから数える程度って風に変化しちゃったわけだから、そっちの事情も当然違って来てるとは思うし、だからなおさらね…
わざわざそれ確認のため現場に行ってみようって気もあまり起きなかったし…

とは言え、実際には今ってどういう状況なんだろう?

その日の終わり頃に投げ売りとかやってる場なんてあるんだろうか?
やっぱり来場者数に合わせてそれほどの量はそもそも作ってないのかな…

おかげさまで今のオレって、また金のない身にきちんと戻ってんのね。
超律儀なもんで(笑)

というわけで、もし立川でまだでそういう名残が少しでも残ってんなら20歳の時以上に嬉しいし、容器持参でぜひ最終レース間際に訪問したいと思うんだけどさ(笑)

「えっ、目の前にある西武園?」

隣に『いなげや』があっからねハッハッハッ(汗)
時間帯で値引き品もちゃんと(笑)

関センセェといいタナカセンセェといい、ど~してそうあさましい晩年送るようになるのかねえ…

それからさ、西武園にはおいしい空気と水が、いつも無料でサービスされてるってことお忘れなくね!

それだったら自分家に居たって ほぼ同じものありつけるじゃん
水道料金があるから水はタダじゃないけど(笑)

ハイ!
とゆ~わけで、今のタナカセンセェが ふだん いかに競輪場にいってないか ホント〜によくわかる今回でした。
少しは お金つかってよね!
「でわ!」

『いなげや』には、週に1~2回行って金使ってる(笑)